さまざまな人の手を経て「酒一筋」は生まれ、育まれています。
「雄町米」を栽培する農家、醸造を担当する職人、さらにそれを支える数多くの人々――。
それぞれの強い想いこそが、いい酒を造るのです。

利守酒造 五代蔵主

利守 弘充

杯を重ねる度に深みを増す「本物の日本酒」を
日本だけではなく海外にも届けたい

目指すは、ワインの世界におけるシャトー、ドメーヌのように、すべての原料米を自社田で栽培し、収穫、そして酒を醸す蔵です。
たとえ、道のりは長くても、そして険しくても。
1杯目よりも2杯目、2杯目よりも3杯目、と杯を重ねる度に「うまい!」と言って頂ける“日本酒”を造り続けたい、と考えております。
一人でも多くの方に、“酒一筋”赤磐雄町”を知っていただく為、国内だけでなく、海外をも駆け回っております。

利守酒造の次期蔵元(五代目)として、日々迷走中です。
迷走の様子はブログ「醸句通信」で随時更新中!
「Twitter」も随時更新中。是非ご覧ください!

 

利守酒造 第四代蔵主

利守 忠義

他の大きな蔵では作っていない、
本物の、何の混りものもない酒を造ろうと

私が「雄町米の復活を」と思い立った昭和40年代当時、清酒の大部分は「三増酒」と呼ばれる醸造用アルコールと糖類(ブドウ糖・水飴)、化学調味料などを多量に添加した、甘いベタベタとした酒でした。

農薬を使った原料米、機械万能の醸造技術によって求められたのは、質よりも量――それは、日本酒の堕落とも言える状況でした。

他の大きな蔵では作っていない、本物の、何の混りものもない酒を造りたいと思いました。農家の方々に、まぼろしの米と化していた雄町米を栽培していただけるようお願いに回り、各方面の方々の多大なご協力を得て、ついに槽口からほとばしる新酒を前にした時の感慨は、生涯忘れることはできません。

平成に入ってからは、名匠・森陶岳氏のご賛同をいただき、夢であった備前焼の大甕での酒造りにも乗り出すことができました。

手間がかかってもいい。地元の米で、地元の水で、地元の土で作った備前の焼き物で、私は本物の地酒を造りたかったのです。

その時代の流行はありますが、酒は本来、旨いものでなくてはいけません。雄町という米から、どこまで個性的で、しかも旨い酒が作れるか、これからも挑戦の日々だと思っています。

 

製造責任者

利守 信之

「酒造りは米作りから」

但馬杜氏・田村の下で酒造りを学び、夏は「米作り」、冬は「酒造り」と米作りから一貫した酒造りを目指し日々奮闘しております。 一人でも多くの方に雄町米で醸す酒の奥深さを知って頂くために頑張ります。

 

現代の名工 但馬杜氏

田村 豊和

精魂込めて醸した酒
飲むというよりは、かみしめてほしい

利守酒造の杜氏として招かれ、四半世紀を越える年月が流れました。その間には、まぼろしの米と言われた「雄町米」を復活させるための奔走があり、備前焼の大甕で酒を醸すという挑戦がありました。

 
酒造りに関しては決して妥協を許さず、納得行くまで試みるのが杜氏としての私の信条ですので、非常に充実した仕事ができたと自負しております。

利守酒造で醸される手作りの本物の酒は、機械ではまねできない芸術品と言ってよいでしょう。しぼったときはまだ半製品。それから先の管理も、酒造りにおける大切な要素です。

そのように大事に作られた酒ですので、飲むというよりは、かみしめてほしい、というのが、私の願いです。

お客様に喜んでいただける酒であってほしいと、酒造期が終わった後も日夜願っています。杜氏歴は40年近くになりますが、酒造りは毎年一年生であると痛感しつつ、筆を置きます。

 

雄町米栽培農家

清野 虎雄

何故、雄町を栽培するのか――
雄町作りを通じて学んだ生き方

私の雄町栽培は、小学生の頃から始まりました。昔は、田植え休みがあり協同で行う田植えは楽しみでした。また、父親の除草についていき、稲の葉に産みつけられた害虫(メイ虫)の卵を除去したりいなご採りをしたものです。

秋の稲刈り休みには、稲刈りの手伝い、脱穀の際の稲の運搬を行いました。雄町は丈が長いので大変苦労しました。また、協同で行う籾すりも楽しみでした。

中学生頃になると牛での田引、代かき、苗運びを行うようになりましたが、雄町は苗が大きく他の品種に比べ量が多く大変でした。雄町は、病害虫に弱く(特にメイ虫)また倒れ伏し、台風が来れば品質が悪く、籾すりの時に米選機で数回(5~6回)選別してやりようやく検査に合格するので、近所の人に大変な苦労をかけたものです。子供心に、『何故、雄町を栽培するのか』と思ったものでした。

雄町の稲は、出穂後、穂揃から20日頃までが、他の品種に比べ、大変見事な稲です。また、実るほどに稲穂を垂れるのです。「実れば、実るほど頭をさげる稲穂かな」と言われるように、人の生き方も雄町の稲のようでありたいものです。

父親が、何故雄町作りを続けてきたか――雄町の稲のように人もおごり高ぶりのないようにと、雄町作りを通じて生き方を教えるためだったのでは、と今になって思います。雄町作りが続けられたのも、近所の方々の援助、および農協、普及所の方々のお力添えがあったからと、たいへん感謝しております。